なんでもない特別な日


 時刻は十七時二十六分。今日のフィールドワークを終えた私は、スーパーで買い物を済ませて帰宅する。
「あ、綺麗」
 見上げた夕焼けが見事なグラデーションを描いていたので、道端で少し立ち止まってカメラをパシャリ。ファインダー越しに覗く空は高く広がっている。
 カメラをしまって再び家へと歩き出す。我が家はなだらかな坂を上ったすぐそこだ。
 可愛らしい白うさぎのマスコットがついた鍵を取り出し、玄関を開ける。誰もいなくともつい「ただいま」と言ってしまうのは幼い頃からの癖だ。

 楽な部屋着に着替えると、お風呂の準備をして夕飯の仕度に取り掛かる。今日のメニューは白米、豆腐とわかめの味噌汁、肉じゃが、サンマの塩焼きにオクラのおかか和えだ。
 米を研いで炊飯のスイッチを押し、水の入った鍋を二つコンロにかける。片方は粉末のいりこだしをあらかじめ入れた味噌汁用、もう片方はオクラを茹でる用だ。
 お湯が沸いたら味噌汁の鍋に鰹節を一掴み。隣は塩をひとつまみ入れて、下処理をしたオクラをサッと茹でる。
 豆腐を切って出汁の中に投入し、茹で上がったオクラは氷水につけて冷ましておく。こうすると余熱で火が通り過ぎるのを防げるので食感が悪くならず、しかも急激に冷やすのでオクラが鮮やかな緑になるのだ。
 オクラを茹でていた鍋を洗って水を切ると、今度は肉じゃがの準備だ。
 油を敷いた鍋に豚コマを入れ、肉に粗方火が通るまで炒める。そこに乱切りにしたじゃがいもと人参、くし切りにした玉ねぎを入れて軽く炒めたら一旦火を止める。鍋の中へ味噌汁にも入れたいりこだしの粉末と水に、醤油、酒、砂糖、みりんを一:一:一:一の割合で投入し、そのまま沸騰するまで火にかける。
 ちら、と壁にかかった時計を確認すると、そろそろ十八時半を過ぎるところ。あと十分もしないうちに郁さんが帰ってくるだろう。
 肉じゃがの具材を炒めている途中で火を切っておいた味噌汁の鍋に、おたまですくって味噌を入れ溶かしておく。
 肉じゃがも沸騰してきたので灰汁を取ると、白滝を入れて軽く混ぜ、落とし蓋をして強火で二十分。途中で様子を見ながら混ぜて、煮汁がなくなるまでコトコトと煮込む。
 カチャ、と玄関の戸が開いた音がして、私は肉じゃがの鍋の火を弱めてパタパタと玄関へ向かう。
「おかえりなさい」
「ただいま、律」
 玄関口に立つ愛おしい人は、仕事上がりにも関わらず疲れを感じさせない笑顔で私に抱きつく。耳元でお揃いの、こちらは黒うさぎのマスコットがついた鍵がちゃり、と揺れる。
 抱きしめ合ったまま顔だけを少し離すと、私より九センチ低い視線と目が合う。
「ご飯、もう少しでできるから。お風呂先にどう?」
 その間に仕上げるよ、と言うと郁さんはさりげなく唇を奪って腕を解く。
「じゃあお風呂先にいただくね。今日のおかずは?」
「郁さんの好きな肉じゃがと、あとサンマが安かったから塩焼きにするよ」
 肉じゃがのワードを口にすると郁さんの表情が綻んだのが目に見えてわかる。喜んでもらえたようで何よりだ。
 鞄となにやら冷蔵庫に入れておいて、と頼まれた手提げ箱を受け取って脱衣所へ向かう郁さんを見送ると、私は書斎に鞄を置いてキッチンへと舞い戻る。
 キッチンペーパーで水気を切って塩を振ったサンマをグリルに並べて焼き始める。味噌汁の鍋を再び火にかけ、炊き上がったご飯をしゃもじでほぐす。
 溶け切らずに残っていた味噌を溶かして、戻しておいたワカメを入れる。沸騰する直前で火を止めれば味噌汁は完成だ。
 隣の肉じゃがを確認すると、そろそろ煮汁もなくなってきたので火を落とす。落とし蓋をしたまま十分ほど蒸らせばこちらも完成だ。
 味の染みた肉じゃがを美味しそうに頬張る郁さんを想像しながら、まな板でオクラを一センチ程度に切る。お皿に盛っておかかと醤油をかければ、オクラのおかか和えの出来上がり。
 出来上がった料理を次々と盛り付けていると、グリルからサンマが焼き上がった音がする。脱衣所からもドライヤーの音が聞こえるので丁度いいタイミングだ。
 すだちを添えたサンマを食卓に並べると、お風呂から上がった郁さんがリビングへとやってくる。
「今日も美味しそう。律、ありがとね」
「さ、食べましょ」
 郁さんに着席を促して自分も相向かいに座る。二人で手を合わせていただきます、と言うとまずは味噌汁に口をつける。口の中にじんわりと広がる温かさは味噌汁特有だ。
 続いて肉じゃが。じゃがいもを口に入れるとほろほろと口の中で崩れていく。豚肉もいい仕事をしているし、玉ねぎは甘くて最高だ。にんじんもよく味が染みているし、ここ数年で一番の出来栄えだ。
「ん〜〜〜! 美味しい!」
 幸せそうに肉じゃがを頬張る郁さんを見て満足すると、サンマに箸をつける。背中から開いて骨を取り除き、ポン酢とすだちをかけて食べるとサンマの美味しい香りが口の中いっぱいに広がる。白米が進んで箸が止まらない。
 箸休めにオクラのおかか和えを挟みつつ、二人で他愛のない話をしながら夕食をたいらげる。

 完食して食器を下げると、郁さんはいそいそと立ち上がって冷蔵庫から例の手提げ箱を取り出した。
「じゃーん! モンブランが美味しそうだったので買ってきちゃいました!」
 箱の中から出てきたのは、薄茶色の渦巻くクリームの上にちょこんと一粒マロングラッセののったモンブラン。
「今日は仕事も調子良かったし、ご飯もすっごく美味しかったし、律はいつも可愛いので『郁実さんスペシャルデー』です!」
 なんだか最後の一つはちょっと違うような気もするが、郁さんは楽しそうにしているので敢えて突っ込まない。というより、ここで下手に突っ込んだら言葉攻めにされてタジタジになりそうだ。
 スペシャルデーはなんでもない日のちょっと特別な一日。こうやってケーキを食べたり、少し出掛けたり、普段とは違うことをする日。いつとは明確に決まってないけれど、大体月に一度こうして宣言してちょっとした特別感を味わう。
 お皿に載せられたケーキを一口分口に運ぶと、和栗の味を活かしたクリームの程よい甘さが一日の疲れを癒していく。一緒にコーヒーを飲んで一息つくと、自然にほう、とため息が出る。
「ね、律」
 机の上に置いた手に白い指先が絡まる。すり……、と静かに指を滑らせたら合図だ。
 郁さんの顔を見ると、熱のこもった視線に射竦められる。自分の頬が赤くなって、身体の芯がこの後のことを想像してキュンと疼く。
「ベッド行こうか」
 郁さんのお誘いに私が断る理由はない。
「うん」
 頷いて、寝室のベッドに二人の影が落ちていく。
 夜はまだ始まったばかり。




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